かわよりいずるもの


/1

その青年は、気づいたら――――――文字通り気絶から目を覚ますと――――――森の中にいた。
一瞬訳が分からず、首を傾げる。なんで自分がこんなとこにいるんだ?と言わんばかりに。
脇には小川が流れ、ちちちちち、と何の鳥だか分からないような鳥の鳴き声、夏の虫の暑苦しい鳴き声。森の臭いが充満したそこには、あまりにも自分は場違いだった。
――――――えっと、まず自分が誰だったか。神道八雲(じんどう やくも)、大学生。うん、記憶喪失にはなってないっぽい。
何故こんな所にいるんだろうか。まだどこか呆、とする頭で考える八雲。横に転がったひしゃげた自転車を見て徐々に思い出される記憶。
・・・・ああ、思い出した。大学行くためにチャリで走ってたら車に轢かれそうになって、とっさにハンドル切ったらガードレールの向こうに・・・それで転がり落ちて・・・・
「大学・・・遅刻だな」
そんなことよりも先によく生きてたもんだという話だろ、と自分につっこみを入れる。
ため息をつきながら周りを見回した。
鬱蒼と茂る木々。聞いたことも無い虫の鳴き声。ざわざわという風に揺られる木の葉の音。心地よく、このままもう一度寝てしまっても良いくらいだった。今自分がいるのは大きく平たい石の上で、小さく小川のせせらぎが聞こた。どうやらこの石の下には川が流れているらしい。
なんともなしにそちらを見てみる。

そこに、見惚れた。

小さく流れる川の上に、少女が、佇んでいた――――――――――



声を出せないでいる八雲。
水のように透き通った少女の凛々しい横顔と、川の上に立つ神秘性。全てが完成された一枚の絵のよう。
声を出したが最後、この世界が壊れてしまいそうで。刹那的な美しさ、否、美しいが故に刹那的に感じる。息をすることも忘れ、少女に見入る。
「・・・・・」
顔は振り向いていない。彼女の意識が、こちらに向いた。
「・・・・あ」
そして己に意識が戻る。まるで何か、精神だけ遠いところにいっていたかのような違和感を感じた。それほどまでに――――――見惚れた。
「・・・我が見えるか」
少女が振り向きながら、口を開いた。少女特有の透き通った声。しかし口調からは、不思議なまでの重みを感じた。
「あ・・・あ、うん、まぁ」
それだけで分かった。八雲はそれだけで感じた。この少女は―――――――自分とは違う、別の存在だと。
それきり興味を失ったかのように、少女は遠くを見ていた。意識は遠く、山の彼方を見ているかのよう。八雲は少女を見ている。ただそれしかできぬかのように。
「あの」
意を決して話し掛けてみる。少女はそれに空気だけで応じた。しかし八雲はまさか応じてもらえると思ってもいなかったらしく、話題を考えていなかったと焦った。
「名前は?」
口を伝ったのは安直な一言。
「名を聞きたくば先に名乗るが礼儀だろう」
しかも切り返されてしまった。
「あ・・・ごめんなさい・・・」
「・・・・」
気まずい沈黙。慌てて八雲は、俺は神道八雲、と口にする。
「・・・カセンという」
ぼそり。独白するような少女の言葉。カセン。それが少女の名。
「下りて・・・いい?」
岩からもう一段下の石へ飛び移ろうとする八雲。川の近く、即ちカセンの近く。彼女は無言で応じる。ぴょん、と飛んで下の石に着地。少しよろけるが大丈夫。
「やっぱり運動は向いてないな」
そう言いながら八雲は苦笑した。それを見てもカセンは無言のままだった。
「・・・・」
じっと、カセンを見る八雲。不躾かもしれない、と思いつつ、一度見たら・・・なぜか、ずっと見ていたいと思ったのだった。
「・・・珍しい、な。昨今では信心も浅く我の姿が見えぬ輩が増えたと聞く」
「・・・・」
「そんな中、お主は我の姿が見えた・・・不思議な男だ」
「・・・あなたは、一体」
「我か」
「・・・・」
「我は・・・川神だ」
初めて、カセンは表情らしい表情を見せた。自嘲のような、苦笑のような、そんな笑みだった。
「川、神・・・」
反芻する八雲。信じられない、しかしどこか納得している自分。彼女の存在は、確かに人間などという括りでは当てはまらない気がした。
「真に久しぶりだ・・・話をするなどということは」
カセンは、遠い日を思い出しながら、呟くのだった。

―――――八雲は、カセンを見る。じろじろ、という風にならないように、できるだけ自然を装って。しかし内心は彼女のことを知りたくて堪らなかった。
透き通るような白い肌。しかし白人のようなものではなく、日本人の、白い肌。髪は深い藍色で、時たま揺れるように透き通る。耳は外国の童話に出てくるエルフのようにとがっており、人と違うんだな、と今更ながら八雲は思った。足の先が、水に溶けるように川と同化している。水の羽衣、という表現がぴったりくる薄い水色の、透き通るほど薄い衣。その少女は、美しかった。

「八雲、とかいったか。何故このような所を訪れた」
そうだった。今は大学へ行く途中で、自分は事故でガードレール脇の崖から転がり落ちたのだ。
「・・・ちょっと、事故に遭ったんだよ。この通り大丈夫だったけど」
「・・・・」
「ホントは行くところがあったんだけど・・・なんかどうでもよくなってきちゃったな」
頭を掻きながら、八雲はため息をつく。
「毎日毎日自転車で一山越えて大学って言うのも・・・・無茶があるな」
本来なら車が必要なのだが、あいにくスクラップになっている。(友達がどうしてもというので貸したらすぐに廃車になった。ほんとに勘弁して欲しい)
それでこの一月ほど愛用のマウンテンバイクで登校しているのだが・・・これがまた、辛い。
「・・・・じてんしゃ・・・だいがく?」
不思議そうというより、わからない単語が出てきて不満といった様子のカセン。のりものの名前、勉強を習うところ、と簡潔に教えてやると、
「・・・これだけの長い時間、文化が変わるのは当然か」
とため息混じりに呟いた。
「文化といえば、その衣。真に変わっておるな」
「・・・そっか・・・えっと、知ってるのはどんな服?」
「一枚の布を折り、頭を通す穴をあけ、腰を紐で縛っていた」
貫頭衣だった。
「・・・えっと、縄文時代だったっけ・・・」
「・・・ふん」
不満そうに鼻を鳴らすカセン。なぜかその仕草は、年相応に見えた。その年はどうやら軽く3000歳は越えているようだが。
「・・・、と。とはいえ、やっぱり大学、行かなきゃ不味いよなぁ・・・・」
ただでさえギリギリ単位取れるように計算してあるから、結構不味かったりするのだった。このままずっとカセンと話をしていたいという衝動に駆られるが、それを振り払って行くことに決める。
――――――――また、来よう。
そんな思いを心に秘めながら。
「・・・じゃあ、俺、そろそろ行くよ」
「・・・そうか」
カセンは無表情に返事をする。
「それでは、もう二度と来るな」
心を見透かされたかのような言葉。思わず、どうして、と聞いてしまう。
その問いに、カセンは、口の端を歪めて、こう答えた。
「人間は、嫌いだからだ」
ちゃぽん。そこまで少女が立っていたはずの川は、水飛沫を小さく上げて、なんの変哲も無い小川になった。川に溶けるように少女は消えた。まるで――――――夢でも見ていたかのよう。
「・・・・・嫌い?」
八雲は。ありとあらゆる意味で、完膚なきまでに、どうすることも、できなかった。



/2



じーりじーり。空蝉の声。一夏の命と、一夏の恋の歌。五月蝿く狂おしく響く鳴き声。
自転車は壊れた。得体の知れない森を抜け、何とか開けた道に出ようとする。
「・・・この斜面は・・・無理だなぁ・・・・」
しかし、八雲は困っていた。落ちてきた崖は完全な90度、とてもでは無いが登れない。おまけにかなり高く、よく無事だったなぁと自分のことながら呆れてしまう。
自転車を捨てていけば何とかなるかもしれないが、この森に――――――――彼女の住まうこの森に、そんな無粋な事をする気にはなれなかった。
「・・・しかたがない、か」
よっこらせ、と自転車を背負う八雲。なんとか公道に出られる道を探そうと覚悟を決めたようだった。
「・・・・」
孤独に森の中・・・自然、無口になる。考えることは、彼女のこと。

―――――――――――――人間は、嫌いだからだ
彼女が心を閉ざす意味がわからない。そもそも、何故人が嫌いなら俺の目の前に現れた。
・・・俺の心を、こんなにも奪っておいて。
彼女は、俺と話をした。酷く短く、返事も少なかったが、あれは会話だった。本当に人間が嫌いなら、なぜ会話を成立させる?ただ無視して水に溶けて消えてしまえばいいんじゃないか。
・・・そうだ、納得がいかない。何より、彼女と・・・・もっと、話がしたかった。
もっと会話をして、もっと彼女を知りたかった。
「・・・俺って変な奴だなぁ」
一目惚れ、ここに極まれり。おまけに相手の容姿は少女。結構危ない人かもなぁ、と苦笑する。
何はともあれ、俺は確実にもう一度、ここに足を運ぶだろう。そう確信した。

ぽつり
直接当たったわけではない。しかし雨の音がした。
・・・さっきまで、晴れていたのに。
もしかして、と背筋に冷たいものが走る。
「まさか・・・・夕立じゃないだろうな・・・・」
心なしか空が曇ってきた。そう言えば入道雲も見えていた気がする。今思えば、の気のせいかもしれないが・・・

ぽつっ、ぽつっ・・・・
音が近くなる。リズムは小刻みに強くなっていく。自分の頭に数滴の水飛沫が。
「・・・・っ、冗談じゃないぞっ」
八雲は、駆け出した。

自転車を担いだまま、走った。
不思議と木の密集した区域が目に入る。そこに行けば少しでも雨が防げるか、と分け入ってみると。
「・・・洞窟」
人が余裕で通れるほどの大きな洞窟が、ぽっかりと穴をあけていた。
「やった・・・ラッキーだ」
迷わず、自転車を放り出して洞窟の中に入る。直後から次第に雨脚は強くなっていき、数分後には本降りの様相を呈した。ぽつぽつ、などというレベルではなく、ババババババ、という感じ。
しかし洞窟に入ってしまえば濡れる心配など無く、八雲は段々と好奇心にかられていった。
―――――――――――この洞窟の深部には、何があるんだろう。
好奇心そのままに、洞窟の奥へと踏み込んでいった。
(なんだろう・・・薄く明るい)
洞窟は不思議とほのかに明るいのだが、光源が分からない。内部は涼しく、過ごし易い温度に保たれていた。不気味・・・というよりも、神秘的であった。
「あーーー」
あーー
あー
とくに意味も無く声を出すと、声が反響する。それを楽しみながら――――本音は音がないと不安だからなのだが――――――八雲は奥へ奥へ進んでいく。
と、足に、膝ほどまである何かがぶつかった。少し肩が強張る。
「・・・・なんだ、これ」
石でできた、何かを置くためのもの。美麗に、しかし無骨に彫刻が施されており、相当の年季も感じさせる。
「祭壇、かな」
体が当たった物の正体を突き止め、安堵しつつ観察する。
使用の痕跡は無く、付近に何か供えられている様子も無い。しかしほこりは積もっておらず、つい最近雑巾で拭いたかのようにきれいなままだった。
「・・・?」
首を傾げた。しかしそれ以上分かることも無いのでさらに奥へ進む。結構奥へ来たはずだがまだ中は薄明るく、洞窟の中を浮世離れした空間に見せていた。
そして再奥、洞窟の行き止まりは広い部屋のようになっていた。そしてそこには、木製の小さな小屋――――――まるで神棚のような――――――が飾ってあった。
「何かを祀っていた・・・?」
それは・・・相当の年季を感じさせる物でありながら、やはりきれいに手入れされていた。
・・・誰かが、手入れをしているのだろうか。
しかしこのような祠、八雲は一度も聞いたことが無かった。土着の神なら土着の神なりに、地元では信仰の対象になっていそうなものだというのに。
「ああ、そういえばカセンも」
彼女も・・・本当に河神なのだとしたら、ある程度信仰の対象になっていてしかるべきだ。しかし・・・自分は、地元といわないでもそれなりに近場に住んでいるはずの自分は・・・そんなの、聞いたことも無かった。
ともかく、ここはカセンを祀った祠なのだろうか?そんな疑問を八雲は持ちつつ、もと来た道を戻っていく。
ほのかに明るいとはいえ、入り口の光が見えた瞬間八雲は安堵のため息をついた。

、と。

「そこにおるのは、誰だ」

透き通った、声がした。
洞窟の入り口に、カセンが立っていた。
川の上では同化していた両足はしっかり地面につき、裸足で地面を踏みしめている。
逆光でよく見えないが、カセンだということだけは一目でわかった。
「・・・え、えーと」
なんとなく気まずく、言葉に困る八雲。別に悪いことをした訳ではないのだが・・・なぜか、後ろめたい気分になった。
「・・・人間、か」
その声には、なぜか、落胆が含まれて聞こえた。
「そこは山神の寝床だ。早々に立ち去るといい」
山神の寝床。カセンを祀る祠ではなかったらしい。
「寝床って・・・誰もいなかったけど」
「今は、な」
簡潔に言葉を切り、カセンは背を向けた。
「待ってくれよ」
引き止める言葉に、気配だけで「まだ何か用か?」と聞き返す。
「なぁ・・・なんで、人間が嫌いだ、なんて?」
「・・・」
「・・・」
沈黙、ひたすら気まずい。ひょっとしてNGワードだったか・・・?思考がぐるぐると八雲の頭の中で回る。
「・・・人間が嫌いな理由、か」
「・・・うん」
カセンは、こちらを見ないまま、一言。
「その山神のせい、だな」
「・・・山神って・・・神じゃなくて、人間を嫌いな理由だよ。山神は関係ないだろ」
必死に食い下がる八雲。しかしそれを無視して去ろうとするカセン。
「ちょ、待てよっ!!」
カセンの肩に、触れ・・・・
ぱしんっ。
カセンの肩に触れたと思った瞬間、手が払われた。
カセン自身が手を払ったわけでない。一瞬何が起こったか分からなかったが、水が肩から分離するようにして現れて空中に浮き、それが手を払った感じだった。
「触るな、穢れる」
カセンは首だけ振りかえり、八雲を睨みつけた。他でも無い、憎悪の眼だった。八雲は金縛りにあったように動けない。声も出せない。呼吸すら仕方を忘れた。
――――――――――――――カセンは、去っていった。


あの洞窟には、かつて山神が住んでいた。その山神には少しばかり縁があったので、カセンはよくあの洞窟へ足を運んでいた。
―――――――――強く雨が降ったから、あの洞窟は水浸しになってはいまいか。
たいていは杞憂に終わるのだが、かつて一度そのようなことがあってからは、心配で雨が降るごとに足を運んでしまう。
―――――――――そこに、あの人間が。
不愉快だった。あそこには、人間はいてはいけない。最悪の組み合わせだ。そして再悪だ。最悪がもう一度訪れる事になる。
――――――――― 一瞬、サンロかと思った。
それも不愉快の原因の一つ。サンロがいるはずが無いのだ。あいつは、死んだ。それを勘違いし・・・あまつさえ、人間。
―――――――――なぁ、サンロよ。
何故お前は、あのような事を我に頼んだ。今だに我はここでもがき苦しんでいるではないか。何故お前は。
―――――――――わからない。
我が奴に対してなにを思っていたかなど知らぬし、奴が我をどう感じていたかなども知らん。しかし・・・互いに、疎ましくはなかったはずだ。
―――――――――なぁ、サンロ。
「いいかげん、我も連れて行ってくれはしまいか――――――――」
その言葉は、あまりにも空しくからからと響いた。


なんとか公道にでた八雲はしかし、迷うことなく通学路を逆走し始めた。さっさとかえって寝たい気分だった。むしろ不貞寝したい。なんだかすさまじくつかれた。現金な話だが、今更ながら体中痛くなってきたことだし。ひしゃげた自転車は乗ることもできず、手で押していくしかない。精神的にも参っていた。
「・・・・はぁ」
誰にでも聞こえるような、あからさまなため息。あの眼は・・・あの眼は、反則だろう。恨まれるったって、俺のせいじゃねーっての。八雲は逆ギレを始めていた。
―――――――山神ってのは、何しやがったんだ。
山神とかいうやつが何かしたから、カセンはあんな風に人間恨んでる。山神の奴め、一体どんな奴だ。もし会ったら一発殴ってやる。どうせろくな奴じゃないんだろう。
・・・触れるな穢れる、か。
そこまでに嫌われる、理由ってなんだろう。八雲は、どうしても知りたくなった。そうだ、知りたい。そしてできるなら、挽回したい。名誉挽回、人間として、そして男として。
――――――――人間って、確かにろくなもんじゃないかもしれないけど、そんな、恨まれるほど酷いモンじゃないと思う。
八雲は、そう信じていた。世の中を拗ねてはいなかった。だから、思った。
――――――――もう一度、会いたい。会って、話をしたい。
もしかしたらただ会いたいだけで、ぐちゃぐちゃ理由つけてるだけなのかも、と八雲は思う。しかし、会いたいと思う気持ちは本当だ。
――――――――もう来るなと、言われただろ?
「でも、行く」
八雲は決めた。何度睨まれようとも、なんとすげさまれようとも、きっと・・・彼女の心を開かせようと。満開じゃなくていい、5分咲でいい。きっと、人間って悪いもんじゃないな、と思わせると。
そのために。
「・・・今日はさっさと帰って、ねよ」
という結論に達するのだった。
既に時刻は3時過ぎ、確かに今更大学へ行っても仕方がないのだが。


ちなみに翌日、八雲は酷い筋肉痛に悩まされることとなる。




3へ。